III

デジタル時代の夜明け
1988(昭和63)年〜1991(平成3)年

デザインのコンピュータ化、はじまりはCGだった

機材の普及によりデザイナーの手でさまざまなことができるようになると、今度はコンピュータをデザイン分野で活用しようという動きが出てきた。そして、1980年代初頭、ミニコンやPCをベースとしたコンピュータグラフィックス(CG)が登場する。

いづみやもこの時期からCGソフト、ペイントソフトなどの取り扱いを開始した。一式で1,000万円以上と高価な機材であったが、解像度が256または512ドットと低かったので、グラフィックデザインで使用するにはまだ現実的な機能性を備えているとはいえなかった。しかし、カラーシミュレーション、テレビ番組などのテロップづくりには十分で、もっぱら映像関係の現場で使用された。

Macintoshの登場

1984(昭和59)年8月には、石井榮一がいづみやの新しい代表取締役社長に就任した。

この時期、榮一がよく語っていたのが、「社員にはつねに能動的・自主的であってほしい」ということである。[デザインスコープ]や[コピック]の開発は、じつは社員の自主的な取り組みからはじまったようなものだったが、榮一は当時から社内のそうした動きを容認し、新しいことにどんどんチャレンジしていく姿勢を前面に出し、積極的な商材集めを奨励した。

3代目社長:石井榮一

同じ1984年に米・Apple Computer社から発表されたのが、[Macintosh]の第1号機となる128Kのパーソナルコンピュータであった。描画性能に重点をおいた一体型モデルで、初めてマウスのGUI操作が採用されたことでも話題になった機種である。

いづみやにも日本の輸入元であったキヤノン販売からデモ機がやってきたが、9インチ・モノクロのモニターという仕様はデザイナーが求める要件にはほど遠かった。

担当者の気持ちを動かしたのが、インダストリアルデザイナーの川崎和男氏との出会いであった。同氏の言葉や作品から、「現時点のMacintoshは版下づくりまではできないかもしれないが、“発想の道具”としてデザイナーのパートナーになれるかもしれない」と触発されたのだ。

1985(昭和60)年、いづみやは細々とではあったが、Macintoshの取り扱いを開始した。

デジタルを取り巻く環境が整いはじめる

1987(昭和62)年に[MacintoshⅡ]が発売。翌1988(昭和63)年には、Adobe Systems社がソフトウェア[Illustrator 88]をリリース。モニターがカラーになり、線画で版下の一部が作れるようになり、[Apple Laser Writer Ⅱ NTX-J]という日本語PostScript対応プリンターも発売された。Macを使うための環境が急速に整ってきたのである。

そこで、いづみやは1989(平成元)年のデザインツール展示会『GAM(Graphic Arts Message)』でMacintosh普及のための思い切った仕掛けを行った。アートディレクター 奥村靫正氏の協力を得て、Macintoshで制作したポスターをメインステージで紹介したのである。これを機にMacintoshは知名度を上げ、先端を走るデザイン事務所や、自動車メーカー、キャラクタービジネスを展開する企業などに導入されるようになった。

同年、いづみやは四谷と梅田にMacintoshのショールームとトレーニングスペースを兼ねた『クリエイターズステーション』を開設、1991(平成3)年12月には、恵比寿にデジタル関連の部門を集結させた『CATビル』をオープンした。

クリエイターズステーション

CATビル ショールーム

いづみや誕生70周年。新しいはじまりにするために

元号が昭和から平成に変わった1989年11月18日、いづみやは創立70周年を迎えた。

その記念事業の構想が浮上したのは1年前の1988(昭和63)年秋のことだった。同年11月、“70周年記念事業委員会”が発足。画材のいづみやから、機材やパソコンまで扱う会社へと変容する中で、「過去を祝うより、これから伸びていく企業としてどうあるべきかを明確にしよう」とメンバーによる話し合いを開始した。ちなみに、委員会の愛称は“It’s”。70周年を迎える1年後に、「It is(これだ)」と実感ができるような活動がしたいとの思いをこめてつけられた。

その後、各部署の若手による合宿討議なども経て、70周年記念事業の内容が決定した。企業理念の再構築、社員全員参加による記念式典の実施、記念誌の発行、イベント販促の実施、社内広報の5項目である。

最重要課題は、企業理念の再構築であった。長い時間をかけた話し合いや、経営陣へのプレゼンテーションなどを経て、「自由で快適、豊かな明日を目指し、デザイン文化の新しい価値をつねに創造し続ける」という企業存在理念ができあがった。

社員が集う70周年記念式典は、1989年11月18日、ホテル椿山荘東京にて執り行われた。予定通り、社員のほぼすべてである約680人が参加。70周年を祝うとともに、榮一からは、『新いづみや宣言』として委員会で練り上げた企業理念が語られた。そして、その締めくくりとして発表されたのが、新たに打ち出したイメージをより具体的なビジョンとして表すために「CI(コーポレート・アイデンティティ)を実施する」ということだった。

CIと社名変更。“.Too”の文字に息づく新しいビジョン

1990(平成2)年1月に“CI委員会”が発足、本格的なCI活動がはじまった。開発作業を依頼したのは、この分野で定評のあったIDEX社。同社は米英に拠点をもつFitch Richardson Smith(FRS)社と提携関係をもっており、デザイン開発を担当することとなった。

CIの最大の目的は、企業や経営の本質にふれ、新しいビジョンや企業活動を描くことであるが、いづみやにおいては新しいビジョンを体現するものとして、社名変更も大きな要素であった。いづみやという名は画材店のイメージが強いこと、外国人には読みづらく海外展開に向いていないこともその理由であった。

新社名の候補は、社内公募によるものが838案、IDEX社・FRS社からの提案が202案。数回にわたる絞り込みの結果、最終段階には5つの案が残った。さらにその5案を「国際的な場で認知されやすいか、親しみやすいか、発音しやすいか」など複数の項目で評価したところ、もっとも高い評点を獲得したのがFRS社会長が考案した“Too”であった。

だれも想像していなかったようなネーミングであった。このときFRS社から聞かされたのが、「日本ではあまり知られていないが、Tooという言葉には、more(もっと!)、beyond(さらに上へ!)という意味がある」ということだった。それは榮一が口ぐせのように言う「チャレンジ」と通じるものでもあった。

その後、FRS社でロゴデザインのプレゼンテーションが行われた。Tooという文字の前に「 . (ピリオド)」をつけてデザインされたビジュアルだった。

不思議なことにピリオドがついたことで、Tooという名はさらに能弁になった。ピリオドの前にあるのは、いづみやが紡いできたストーリー、あとに続くのは、これからTooが重ねていくいくつもの新しいストーリーだ。さまざまなことに挑戦し、さまざまな明日を開く、そんな意思が“.Too”の名からあふれ出たのである。

このプレゼンテーションを経て、“いづみや”のDNAの継承者は“Too”に決定し、1992(平成4)6月1日付で『株式会社Too』への正式な社名変更を実施した。

正式発表前、榮一は“.Too”という文字を自宅のキッチンの壁に貼り、これでほんとうによいのかと自問自答しながら眺め続けていたと述懐している。一方、創業期よりいづみやののれんを守り続けてきた英子は、社名を変えたいと聞いたとき、「みんなが変えたいなら、私はいいわよ」とあっけらかんと答えたという。

page top