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画材店からデザイン用品の専門店へ
1919(大正8)年〜1969(昭和44)年

1919年、渋谷にいづみやを開業

1919(大正8)年、東京・渋谷の青山学院の前に、小さな文具店が開業した。創業者は石井そよ。『株式会社Too』の前身『いづみや』の誕生である。

まもなく、近所に趣味で絵を描く学生がいたのをきっかけに、いづみやは店頭に絵の具や筆やスケッチブックをおくようになった。本格的な画材を扱う店が近隣になかったことから、「いづみやに行けば欲しいものがそろう」との噂が広まり、渋谷はもとより世田谷、目黒、品川方面からも画家たちが通う店になっていく。このころには、店主の娘・石井英子(ふさこ)も、幼いながら店番を手伝うようになっていた。

創業者:石井そよ

創業当時28才。幼い子供たちをかかえての営業だったが、誠実さと忍耐力で店を切り盛りし、お客様である画家や画学生からの信頼も厚かった。

池袋モンパルナス、芸術家たちの暮らしとコーヒーの匂い

しゃれたフランス菓子の店と路地に漂うコーヒーの匂い。酒場で夜な夜な交わされる芸術論や、オペラ歌手が酔っぱらって歌うカンツォーネ……。

1931(昭和6)年、いづみやは池袋のアトリエ村の近くに場所を移した。“池袋モンパルナス”と呼ばれたその界隈では、若い芸術家たちが情熱的に創作活動を行っており、いづみやはそんな彼らの集う場所になっていったのである。そのころには数人の店員を雇い、女学校を卒業した英子も文房堂をはじめとした卸問屋への交渉などを手がけるようになった。隣に額縁専門店を開き、オリジナルデザインの額縁も売り出して、商売は順調に広がっていた。

しかし、太平洋戦争がはじまると、画材は統制品になり、検閲も強化されるようになって、池袋モンパルナスにも暗雲がたちこめる。戦火が激しくなった1943(昭和18)年、いづみやはついに店を閉め、一家は静岡県へと疎開することとなった。店の画材は木箱にきっちりと収め、風呂敷に包んで大事に持ち出した。

店頭に立つ石井英子

焼け野原からの再出発

1945(昭和20)年4月13日の大空襲で、池袋の街は焦土と化した。しかし、終戦とともに生命力旺盛な人々が続々と集まり、駅周辺には大規模なヤミ市が形成されつつあった。

慌ただしい社会情勢の中、帰京した石井家は喫茶店の営業で一時期をしのぎ、1年後、ようやく木箱の蓋を開け、いづみやを再開した。

散り散りになっていたアトリエ村の住人も顔を出すようになり、「生活ができるようになったら、また絵を描きたい」と口々に語った。そんな彼らの思いを汲み、「絵に関するものならなんでも売ろう」と決意した英子は、戦後の物資不足の中、必死に画材をかき集めながら、いづみやの再建に取り組んだ。

ちょうどそのころ、東京芸大では学生の受け入れを再開。英子は「大学ではデッサン用の紙が不足しているだろう」と考え、通産省に仏・キャンソン社の木炭紙の輸入を申請した。時節柄、必需品以外の輸入には許可が下りなかったが、英子は弁当持参で窓口に通いつめ、半年後、ついに300ドル分の輸入の認可を受けた。1948(昭和23)年、これがいづみやの輸入業務の第一号となった。輸入を円滑に進めるため、1950(昭和25)年、いづみやは有限会社になった。

1952年、いづみやの行く道を決めた新聞記事

1950年代に入ると、モノづくりやコミュニケーションで“意匠”や“図按(図案)”の果たす役割が少しずつ注目されるようになってきた。国内ではまだ“デザイン”という言葉が使われていなかった時代の話である。

そんなある日、新聞を読んでいた英子の目がある記事に釘付けになった。記事は、専売公社(現JT)のたばこ[ピース]のパッケージが一新されたことを伝えていた。新しい図按も印象的だったが、なにより衝撃的だったのが、この仕事をしたアメリカ人デザイナーに150万円という当時破格の報酬が支払われたことであった。

「これからはデザインだ……!」、そう直感した英子は、デザイン用品の調査を開始。通産省の産業工芸試験所に足しげく通ったり、アートセンター**留学から帰国した人々のもとを訪ね、本場アメリカの道具についての教えを請うたりした。

画材の商売は単価が小さく、貧しい画家相手では集金もままならぬことが多かったが、商業デザインであれば、企業相手の安定した商売も叶うだろう。デザイン時代の到来は、いづみやの行く道を照らす新たな光明でもあった。

いづみやは、定規、羽根ぼうき、製図板など、デザイナーのためのさまざまな商材をそろえていった。「パッドタイプのトレーシングペーパーを」という現場の要望には、いづみやオリジナル商品の第一号となった[トレペパッド]を製作して応えた。楕円定規、カーブ定規、スイープなど、国内の問屋で手に入らないものは次々と自社で製作した。

パッドタイプのトレーシングペーパー

1960年ごろ、日本で初めて作られたパッド型のトレーシングペーパー。アメリカのデザイナーが来日した時に持っているのを見た日本のデザイナーが、「ぜひ日本でも作ってくれ」と言い、いづみやが作った。

  • ^* CPI(消費者物価指数)で換算すると約1,000万円。
  • ^** アートセンター:Art Center College of Design。アートとデザインに特化した米ロサンゼルスの名門美術大学。

新しい材料や手法をプロダクトデザインの現場へ

デザイン用品に力を入れるようになると、いづみやは外売営業部門を新設した。その重要な営業先となったのが、大手の自動車や家電のメーカーだった。

製図やスケッチに使う用品のほか、自動車メーカーでは米・シャバント社の[インダストリアルクレイ]の需要が急増していた。車のモデリングに使用する専用の粘土で、のちに、「クレイが登場したことが、日本のカーデザインの手法に欧米並みの近代化をもたらした」といわれたほど画期的な材料であった。

いづみやは当初、国内の問屋から国産の粘土を仕入れて納めていたが、1962(昭和37)年、日本におけるインダストリアルクレイの輸入代理店となり、全国の自動車メーカーに納入するようになった。

一方このころには、家電各社でもプロダクトデザインという概念が本格化。「美しさはもちろん、機能性や使い勝手までデザインされた製品をつくっていこう」、そんな気運が高まりつつあった各社のデザイン室に、いづみやはさまざまな道具・材料を納入したのである。

家電メーカーの集まる関西での営業の便宜を図るために、1969(昭和44)年には大阪支社を設立した。

教わりながら、教えながら、広げていく。“いづみやスタイル”の誕生

1960年代、高度経済成長を続けていた日本では、広告をはじめとした商業デザインも急速に発展した。

いづみやはデザインのための道具も豊富にそろえ、銀座・青山などに続々と誕生した広告プロダクションにも取引先を広げていった。いわゆるエリア営業で、朝、注文の入ったものを午後には届けるという迅速な体制も顧客に重宝された。

ちょうどこのころ開催したのが、アメリカ人講師による広告制作・アートテクニックの講習会である。製品のよさを伝えながら、マーケットを広げていくというこの販売ノウハウは、その後の[デザインスコープ]や[Macintosh]などへと続く“いづみやスタイル”の原点となった。

COLUMN

新しい表現を可能にするリキテックス
〜 バニーコーポレーション誕生

1969(昭和44)年、卸部門を独立させ、『株式会社バニーコーポレーション(現・バニーコルアート)』を設立。同年にはアクリル絵具・リキテックスの国産化を開始した。

リキテックスは、1950年代以降、多くのアーティストが新しい表現を可能にする素材の登場を待ち望んでいた背景で生まれた。

1955(昭和30)年、アメリカで理想的な絵具の研究を重ねていたヘンリー・レビソン博士は、バインダーにアクリリック・エマルジョンを用いることにより、新しい絵具の開発に成功。比類のない安定性と堅牢性を持つ、世界で最初の水性アクリル絵具は「liquid=液体」と「texture=質感」という言葉を合わせて「liquitex・リキテックス」と名付けられた。当時第一線で活躍していた若いアーティスト達に積極的に支持され、60年代以降のアメリカンアートの隆盛を迎え、リキテックスは世界中の多くのアーティストに愛用されるようになった。

リキテックスの誕生から60年が経った現在でも、アートの第一線で活躍するアーティストや、これからの時代をつくる次世代のアーティストを支え続けている。

バニーコルアートは、現在、永く日本の芸術文化の維持発展に貢献することをミッションに、世界的な画材ブランド[リキテックス][Winsor & Newton]など、画材・デザイン材料の製造・輸入販売を行っている。

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